「第5課」キリストの十字架のみわざ(贖罪論)

教会のための神学入門

救い(回復)の道である御子キリスト

神は「義」なるお方であると同時に、「愛」なる憐れみに富みたもうお方です。ですから、罪人である私たちに対して「怒り」「裁き」を下そうとされる一方で、なんとかして「本来の姿」へと回復させ、救い出したいと思っておられるのです。

歴史において、最初にイスラエル民族を代表として選び出し、彼らを通して「神様の存在」を知らしめ、神様のみこころが分かるようにと律法(りっぽう)」や「預言(よげん)(しゃ)を与えました。

しかし、イスラエルの民は「律法」によっては、神様との関係を回復することができませんでした。結局また「神」を忘れ去って「偶像崇拝」に戻ってしまったのです。

それだけ「原罪」の性質は根深いものがあります。もはや「律法」や人間自身の努力によっては、神様のもとに立ち帰り、神様との関係を回復する(和解する)ことができないのは明らかです。

人間自身の内には「救いの手段」はありません。人間の外から、神様ご自身が働きかけ助けてくださらなければ、どうにもならないのです。

まず、私たちは「堕落した責任」「罪を犯した責任」を取らなければならないはずです。

例えば、犯罪をした場合は、法廷で断罪され、罪過にふさわしい償いがされなければ、正しい市民としての地位は回復されません。

同じように、私たちが「神様との正常な交わり」を回復するためには、それに先立って、犯した罪の責任が断罪され、裁かれて、その償いまで行わなければならないのです。

しかし、私たちの犯した罪はあまりにも大きすぎて、誰もそれに十分な償いをすることなどできません

償いに値するような「善」をしなければならないわけですが、原罪を抱えている私たちは、神様の目にかなうような善を行うどころか、偶像崇拝を少しも犯さないで生きることすらできません。

そこで、神様が人間を救い出すために与えられた最終手段が、イエス・キリストを世に送ることでした。

イエス・キリストは、神ご自身が「人」となってお生まれになられた存在です。

キリストは「神」であると同時に「人」でもあるという特別な存在なのです。

3:16神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。 3:17神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。(ヨハネによる福音書)

「神」であるから、キリストは「罪」によって汚染されておらず、常に正しく、罪を犯さない方でした。

しかし、一方では「人」でもあり、私たちと同じように「罪の責任」を連帯して担うことができます。

キリストこそが、「罪の責任」を連帯して負うことができ、「償い」をすることができる唯一の存在なのです。

3:23すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、 3:24彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。 3:25神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。(ローマ人への手紙)

神は、このキリストに、全人類の「罪の責任」を背負わせ、十字架による極刑という形で「裁き」を下され、キリストの全生涯を通して、罪に対する「償い」(あがない)を実現なされたのです。

罪人である私たちは、キリストを救い主として信じ、霊的に結び付くことによって、キリストのなされた贖いの成果を受けて、神との親しい関係(霊的交わり)を回復することが赦されます。

キリストの「十字架の贖い」にあらゆる救いの土台を置くのが、聖書的な信仰です。

【確認クイズ】

  1. 神社などで祀られている神々 と 聖書のまことの神 はどう違う?
  2. 宇宙を支配する原理やエネルギーのようなものが 神なのでしょうか?
  3. 人格をもつ存在という点で、聖書の神とギリシャ神話や古事記の神々は似ているようにも見えますが、どの点で大きく違うのでしょうか?
  4. 聖書のまことの神は「   」である神であり、唯一の神のうちに

  「 」と「 」と「  」の3つの「  」があります。

  1. まことの神のご性質 として どのような性質 が挙げられますか?
  2. キリストは 神なのですか?それとも人間なのですか?
  3. キリストは 何のために 世に来られたのですか?
  4. 聖書の信仰と救いの土台が十字架にある、とはどういう意味ですか?
  5. このような神様とキリストについて、あなたはどのように感じますか?

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