【第6課】「救われる」とはどういうことですか? ~3つのプロセス

教会のための神学入門

撒かれた種が発芽した後に、芽が出て、茎や葉が成長し、やがて花が咲き、最後に実るように

救いの全体にも、最初があり、中ほどがあり、最後(完成)がある、というプロセスがあります。

「義認」= 罪のゆるし

自分の罪を自覚し、悔い改めをもって、十字架のキリストの贖いを信じた者に対して、一番最初に神様がして下さることは何でしょうか?

それは「罪のゆるし」としての救いです。

宗教改革者のルターは、この「罪の赦し」を「義と認められる」と表現しました。

この義認の恵みには、いくつかの要素が含まれています。

(1)「無罪宣言」を与える

神は、私たちの「罪人としての法的な責任」を書き換えて、私たちの「無罪」を宣告して下さいます。

私たちは、以前と同じように「罪深く愚かな者」であることには変わりないのですが、キリストが十字架でされた贖い(身代わりの刑死)のゆえに、私たちの罪を赦して下さるのです

私たちの「罪の責任」を、キリストの十字架の身代わりにおいて、断罪して裁きを徹底しますが

一方で、キリストが獲得された「義の功績」を、まるで白い衣を着せるようにして、何の正しさも持たない裸の罪人にすぎない私たちに着せ、その「与えられた義」のゆえに、義と認めて下さるのです。

これによって、もはや私たちは「神の裁き」「神の怒り」の対象ではなくなります。

私たちは「キリストの義」をどのようにして受け取るのでしょうか?

それは「信仰」を通してです。目には見えない「信仰という空の管」によって、キリストの義が、私たちに注がれるのです。

(2)「神の子」としてくださる

さらに、私たちの罪状書きを破り捨てて、罪を赦して下さるだけではありません。

「愛する我が子」として、再び私たちを「神との霊的な交わり」へと回復して下さいます

これは大きな変化です。

単に罪人として責めないというだけではなく、愛する対象として見てくださるのです。

子とされた私たちは、神様に向かって親しく「お父さん」(アバ)と呼ぶことができるのです。

(3)「聖霊」が心に与えられる = 「新生の恵み」

さらに、義とされた者に、神様は「聖霊」を与えて下さいます

このことは、霊的な出来事であるので、私たちの目に見えるようには分かりませんが、それまで「罪の中で腐敗して死んでしまっていた私たちの霊」を再生させる(蘇らせる)ために、新しい霊を吹き込んで下さるのです。

すでに、悔い改めて信仰を持つよりもずっと前から、聖霊が私たちにすでに働きかけておられる

ことは「第2課 先行的恩恵」のところで見ましたが、

今回はその聖霊が「私たちの心の中に入ってきて一緒に住んで下さる」ようになるのです。このことを「聖霊の内住」といいます。

このようにして、信じた者に「聖霊」が与えられて、死んでしまっていた霊が再生されることを

「新生」(リボーン)と特別に呼んでいます。いわば、私たちの「第2の誕生日」です。

私たちは、これ以降の人生を、常にこの「内住の聖霊」と共に二人三脚で歩むことになります。

聖霊はいつも、悔い改めと信仰に導き、信仰を通して、私たちとキリストとを霊的に結び付けます。

私たち信徒とキリストとの間に「霊的な交流」(愛の交わり)が発生します

悔い改めて、キリストを信じた日は、私たちが「新しい霊的な誕生」をした日です。

生まれたばかりの赤子が、少しずつ成長して、目が見えるようになり、耳が聞こえるようになり、親との会話ができるようになっていくように、霊的な赤子であるクリスチャンもまた、聖書と祈りと礼拝(教会での説教と聖餐)によって養われながら、少しずつ霊的に成長していきます

「聖化」= 罪からのきよめ

誤解されやいことですが「罪が(ゆる)された」ということは「罪が無くなった」ことではありません。

「罪に傾く性質」つまり「偶像ばかりを求めて、神から離れてしまう性質」は心の奥深くに強く残っています。

ですから、何もしないで放置していると、神のことを忘れ、教会からも離れて、以前のような「神を求めない生き方」「偶像ばかりを追いかける罪深い生活」に戻ってしまいがちなのが、私たち罪人の弱さです。

「新生」を経験した私たちは、すでに心の中に「聖霊」を与えられています。この「聖霊」の働きによって、私たちは「罪に勝つ力」「罪に支配されずに歩む力」を得ます。

聖霊は、私たちとキリストを霊的に結びけて交わりに導くことによって、心の中に十字架で示された「神の愛」を注いで下さいます。

私たちはこの聖霊の働きによって「神がこんなにも罪深い私を愛して、御子を十字架に掛けてまで、この私を救って下さった」ということを(頭の理解だけでなく)直接的・体験的に自覚できます

私たちがそうして「神の愛」を深く心に受け止めるならば、おのずと「神への感謝の応答」が芽生えます。純粋で不純な動機が混入していない「神への全き愛」です。同時に、神が愛される全ての「隣人に対する愛」が与えられます。

このようにして、心に与えられた「神への愛」と「隣人への愛」という「きよい純粋な動機」によって、私たちは「神を喜ばせる愛の行為」を自ら進んで喜んで行うように、押し出され、変えられていきます。

これは、私たち自身の内から出たものではなく、聖霊を通して神がなして下さる奇跡・神秘です。

このようにして、聖霊に導かれて「愛の律法」を喜んで行う者は、意図的に「罪を犯す」ことから守られます。

また、肉の働き、罪を犯すことを「倦厭」して、それを楽しいだとか、好ましいだとか思わなくさせられます。(聖化の恵みは、魂の性質や嗜好までも変化させる力を持っています)

「肉の働き」である「罪」を嫌い、「霊の働き」である「愛による善い行い」を好んで行うような「気質・性格・人柄」に少しずつ変えられていくのです。

「神の愛の受容」「きよい動機による心の支配」という聖化の恵みはいつも同じ強さで持続するものではありません。「愛」というものの性質上、やはり移ろいもありえます。

しかし、それを一度でも私たちが明確に体験しているということは、信仰生活において極めて絶大な土台となります。

自分が帰るべき港がどの方角にあるか、どのような場所であったか、ということを自覚しているということは、私たちを信仰生活における様々な迷いや逸脱(方向感覚の喪失)から引き戻す強力な羅針盤となるからです。

また、最初は「点」(一時的)の経験でしかないとしても、私たちがそれを切に祈り求めて、何度も「恵みの体験」を持ち続けることによって、また「神の愛」によって押し出される「愛の応答」(慈愛のわざ)を繰り返し行うことによって、「点」は「線」となり、「線」は「面」となり、持続する気質・性格として、魂に刻印されていきます

「習い性となる」という諺があるように「徳」(virtue)の語源はもともと「習慣」(habitus)です。

最初は「神の愛が心をとらえる」という一時的でエモーショナルな経験のように見えるかもしれませんが、それは反復して求め繰り返されるうちに、何を喜び、何を嫌悪するか、という一定の性格傾向・感じ方・行動の一貫性を魂の内に形成することになります。

ウェスレーはこのような「愛による人格形成」(徳の建て上げ)聖化の実質を見ていました。

このようにして、心の中に残っている「罪の傾向性」に支配されないで、神様のみこころに従って生きることができるように変えていただくこと。

神が創られた「本来の姿」(神のかたち)へと再創造=創り変えられていくことを「潔め」られる、「聖化」される、と呼んでいるのです。

「聖化」もまた「十字架のキリストの贖い」に基礎を置いています

私たちの罪によって腐敗して死んでいた霊は、十字架のキリストの「復活」に結び合わされることによって、「罪に死んで、霊に蘇る」という霊的な再生の力にあずかるのです。

これは失われた「神のかたち」が「キリストの似姿」として再形成されることです。これによって、私たちは最初の堕罪によって失ったものを回復するのです。

◆(問1) しかし、私たちの内にある「肉の原理」(残存している罪の性質)もまた強く働いて、私たちを以前のような罪深い生活へと誘惑し、引き戻そうとしてくるのではありませんか?

(答1)その通りです。残存している罪の力は、私たちに対して常に戦いを挑み、巧みに誘惑して、罪を犯させ、信仰を失わせ、神から引き離そうと働いています。

私たちは、このような「霊的な戦い」に置かれているという厳しい現実から、目をそらすべきではありません。クリスチャンはいつも「肉の働き」と「霊の働き」古い罪の原理と、新しい御霊の法則の間におり、どちらを選び取るのかという試みの中にあります。

(問2) 信仰によって罪を赦されたクリスチャンは、その後にいかなる罪も犯さないのでしょうか?もし、残存する罪の力によって罪を犯してしまった場合にはどうすればよいのですか?私たちはまた「神の怒りと裁き」の対象へと逆戻りするのでしょうか?

(答2)義認を受けて神の子とされた(救いにあずかった)クリスチャンであっても、残存する罪の性質によって罪を犯すことはありえます。

無意識に犯す罪をも含めるならば、むしろ、日々犯してしまう可能性の方が高いでしょう。

しかし、そのような場合に、私たちは失われないもの」「失ってしまうもの」を区別しておくことが大切です。

義認後のクリスチャンが罪を犯しても「神の子としての立場」を失うわけではありません

ですから、無意識に軽微な罪を犯してしまったからと言って、それだけで自分が「神の裁きと怒り」に脅かされる者(奴隷の霊)となったと考えないでください。また、聖霊は悲しまれてはいますが、心の中におられ取り成し助けて下さいます。

ただし、愛の律法に反する悪しき思いに囚われて、みずから意図的に罪を犯し続けていれば、聖霊を通した「神との生きた結び付き」「霊的な交わり」は失われてしまいます

信仰という空の管が詰まってしまうのです。

そうすると、義認の喜び、聖霊の実である愛や平安は、心から消え去ってしまうでしょうし、あらゆる霊的成長のプロセスはそこでストップして停滞してしまいます。

そこから復帰するためには、もう一度、まことの「悔い改め」をもって神の前に立ち帰ることが求められます。

真実な悔い改めによって、十字架の御前に立ち、犯した罪を赦されて、再び神との「霊的な交わり」を再開することができます。(それが可能なのは、私たちが「神の子」とされているからです。)

このように、救いにあずかった後のクリスチャンにとっても「悔い改め」と「信仰」は無関係ではありません

いやむしろ、それまで以上に、絶えざる日々の悔い改めを通して、キリストの十字架に頼る信仰より強く確かなものとしていくことを求められています。

一方で、意図的な罪を犯し続け、それが悪しき習慣となり、信仰そのものが失われ、自分が罪人であるということすら自覚しない「霊的な無知と無感覚」に陥るケースもあります。

このように「生きた信仰」が失われた状態になると、その人は教会から離れていき、往々にして以前の古い生活に戻っていきます。

このことを「恵みから落ちた状態」(back-slider 棄教者)と聖書は言います。こうなってしまうと、そこから復帰することはそう簡単なことではありません。(全く不可能でもありませんが)

このような状態に陥ってしまう前には、必ずその前兆と原因があります

その人は、聖書を読み黙想し、切に祈り、教会の説教と聖餐で養われ、神への感謝としての「愛の行い」に励む、といった「恵みの手段」を軽く考えおろそかにしていたはずです。

その人は、日々の悔い改めという霊的な習慣を持っていたでしょうか。

神は「先行する恵み」を聖霊によって与えて下さいますが、私たち人間の側でも「注がれる恵み」を意志的に受け止めて、それを用いて応答しなければ、それ以上の救いのプロセスは進展せず、霊的な成長は停滞してしまいます。

「持っているものはますます与えられ豊かにされるが、持っていない者は、持っていると思っていたものさえも失ってしまう」のです。

そのようになってしまわないように「いつも目を覚まして祈っている」ことを求められています。信仰生活や霊的成長のプロセスにおいて、神の恵みは常に先行しますが、それを意志的に受け止めようとする私たち1人1人の主体的な責任(自由意志による応答)も問われているのです。

◆(問3) 気が付くといつも同じような罪の思いや行いばかりを繰り返してしまいます。

「こんな罪深い私などが本当に救われているのだろうか?」と自分を責め、救いの確信がいつも揺らいでしまいます。私のような罪深い者が、神様の求めている「愛の律法」を喜んで行うような者になれるとは到底思えないのですが・・

(答3)人にはそれぞれ性格傾向があり、ネガティブな人もいればポジティブな人もいます。

(信仰者それぞれに気質や性格傾向が異なるという多様性に留意する必要があります。)

自罰的な傾向、自己卑下的な傾向が強い人もあれば、他罰的で傲慢になりやすい人もいるでしょう。

自分を責める自罰的傾向が強い人ネガティブに物事を捉えやすい人は、自分の内に残る罪性にばかり目を向けてしまいがちです。「いつも自分は悪い。自分はダメな人間だ」と考える癖が付いているのです。自分の「罪性」ばかりに目を向けてしまうならば、そこには「絶望」「自己嫌悪」しかありません。

そのような人は、もっと「神の恵み」に目を留めるべきでしょう

こんな何の功績もない罪深い私であっても「神が愛して下さって、義として下さり、子として下さった」という「恵みの力強さ」に目を向け、いつもそこから出発すべきです。

たしかに、「私たちの罪深さ」という現実を見れば、聖書のいう「聖化の理想」はあまりにも高すぎる目標であるように感じます。私たち自身は「罪の力」の前に無力です。

しかし、聖霊を通して働く神の恵みの力は、罪の力よりも偉大であることに信頼してもよいのではないでしょうか?(ウェスレーは罪性に悲観しつつも、恵みの力において楽観します)

私たちは自分の罪深さには絶望しかありませんが、内にあって働いて下さる神の「恵み」において楽観(期待)してもよいのです。人にはできないことも、神には可能だからです。

このように、義認後に犯してしまう自分のあれこれの罪に思い悩み、自分を責めることは、別の視点から見ると「霊的にはいたって健全」です。

そのように、聖霊を悲しませる自分の内なる罪を嘆いているという事実そのものが、あなたがすでに「神の子とされている」ことを証ししているのですから。

むしろ、それよりも大きな問題となるのは、そのような健全な自己吟味や認罪感がまったく無い「霊的な無感覚」の方です。

どれだけ意図的に罪の思いと行いを犯しても、そのような健全な自己批判が生じない(問題意識すら生じない)ケースの方がずっと問題は根深いのです。

また、傲慢になりやすく他者を裁きやすい「他罰的な傾向が強い人」は、自分自身の内なる罪性(愛に反する悪しき思い)を見つめること、義認後の「悔い改め」を常に心掛ける必要があるでしょう。

このように、残存している「罪の傾向性」に対して警戒をすることと、「恵み」をしっかりと受け止めてそれに信頼すること、この両者の健全なバランスを保って信仰生活を歩むことが大切です。

実際のところ、多くのクリスチャンが、この両者の健全なバランスということに対してあまり意識を払っていません。

「罪」ばかりを見つめて「恵み」を忘れてしまうならば、私たちは容易に絶望や自己嫌悪に陥るでしょうし、反対に、「罪」が私たちの内に残存していることを簡単に忘れ去ってしまえば、今度は「霊的な無頓着・無自覚」(放縦)に陥ることになりやすいのです。

◆(問4) 聖化の歩みは 少しずつ進展するのでしょうか。それとも、特殊な体験によってある日突然に「まるで聖人」のように一挙に変えられるのでしょうか?

(答4)日々の信仰の歩み、霊的成長の歩みはゆっくりなものでしょう。

しかし、私たちが誠実に「恵みの手段」を用いながら、与えられた先行する恵みに応答しつつ歩むならば、神様は知らない間に、私たちを信仰的にも霊的にも少しずつ成長させて下さいます(意外と本人は分からなくても周囲から見ると明らかな変化が分かったりするものです)

「聖化」には「漸進的」なプロセス「瞬間的」なプロセス(取り扱い)混在します。

信仰生活の中で、私たちは大きな困難や試練に逢うことがあるでしょう。そのような「危機的な経験」を通して、神様は劇的な心の変化、生活の変革を私たちに与えることが度々あります。そこには深く心を刺されるような、より一層の深い認罪と悔い改めの体験が伴います。

私たちの心は、まるで幾つもの小部屋(ゴミで満たされた)で構成されたゴミ屋敷のようなものです。回心において最初の部屋に光を当てられ、その汚れを自覚して明け渡しますが、実はそれ以外にもまだ自覚していない多くのゴミ部屋があるのです。

人生の折々の機会に、聖霊はその残りの部分にも光を当てて、特別な取り扱いを与えられるでしょう。これが「瞬時的聖化」の体験と呼ばれるものです。このような「転機的な経験」の前と後とでは、その人の信仰生活の深さや視点(質)が大きく変化することがあります。

竹が「硬い節」を時々に作りながら成長していくように、霊的成長のプロセスには「漸進的聖化」と「瞬時的聖化」が組み合わされています。

ただし、どのような「瞬時的聖化」の経験が与えられたとしても、私たちの内から「罪への傾き」である「原罪」そのものが無くなるわけではありません。罪を全く犯す可能性がない聖人や天使のようになるわけではありません。

「栄化」= 罪の根からの救い

キリストが再び来られる「再臨の時」に、私たちは「新しい霊のからだ」(栄光の姿)に変えられ、

「罪の根」である「原罪」そのものが滅ぼし尽くされ、ついに「救いの完成」に到達します

私たちは、復活のキリストと同じような「栄光の霊のからだ」へと瞬時に変えられて

神と共に「神の国」(新天新地)に住むようになります。これを栄化(えいか)といいます。

「栄化」されるまでは、この地上の生涯において、罪の根である原罪は完全には死滅していません

ですから、聖化の著しい歩みに達していたとしても、「今後いかなる罪を犯す可能性も無い」ような状態に達するわけではありません。私たちは、栄化される日まで罪を犯しうる可能性は持ち続けています

しかし、これは「実際に罪を犯し続ける」という必然性を意味していません。

聖化の恵みにあずかって歩んでいる者は、内なる「神への愛」「人への愛」に捉えられて燃え立っている以上は、みずから進んで意図的に罪を犯すことからはおのずと守られることができるのです。

これは、人間の律法的な努力によるのものではなく、ただ神の恵みの力に起因することです。

このように、私たちは「救いの完成」である「キリストの再臨」に向かって

 「罪を赦される」⇒「罪から潔められる」⇒「罪を滅ぼし尽くされる」

義認(ぎにん)聖化(せいか)栄化(えいか))という「3つのプロセス」を歩んでいくことになるのです。


【確認クイズ】

  • 「救いの3つのプロセス」とは何ですか? 「 」⇒「 」⇒「 」
  • 「義認の救い」には どのような要素が含まれていますか?

(A)罪を「 」 (B)「 」とする (C)「  」を与える

  • 「聖化の救い」とは どのような内容を意味していますか?

また、聖化に歩み出す原動力となるものは何なのでしょうか?

  • 日々の生活において、意図的に罪を犯すことを繰り返してしまった場合に、

  何が失われて、何が失われていない、のでしょうか?

  • ④の状態から復帰して、神との交わりを回復するためにはどうすればよいのでしょうか?
  • 聖化の歩みにおける「漸進的」な側面と「瞬時的」な側面とは何ですか?
  • 「栄化の救い」とは何ですか? それはいつ起こりますか?


「救われている」ことを「確信する」ためには何が必要ですか?

このように、私たちは「救いの完成」に向かって

 「罪を赦される」⇒「罪から潔められる」⇒「罪を滅ぼし尽くされる」

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