【第4課】「神様」ってどんなお方なのですか?

教会のための神学入門

日本文化における「神」の概念

聖書の神様と、私たち日本人が想像してきた神様は、どのぐらい違うものなのでしょうか?

日本では、神社や祠などにいろいろな神様が祀られています。

日本古来の土着のシャーマニズム(祖先崇拝)やアニミズム(自然の精霊崇拝)では、目に見えない不思議な力をもった存在を何でも区別なく「カミ」と呼んで、その力を恐れて神社に祀りました

そのようにお社に奉ることで、自分たちに祟って害をなすことを鎮め、逆にその不思議な力を利用しようと考えたのです。(こうした呪術的な信仰形態を宗教学ではシャーマニズムと呼びます。神道は日本古来のシャーマニズムです)

しかし、聖書の視点からいえば、神社に祀られている「カミ」(自然精霊の類)はどれも「被造物」にすぎません。それは、自然界の精霊(草木に宿る霊魂)や亡くなった偉人や有力者や祖先を祀っているだけです。

さらに、神社に祀られて祭儀をすることで、人間の都合が良いように不思議な霊力を利用しようとするのがシャーマニズムですが、

聖書の神は、人間が自分の都合で願望をかなえるために奉ってご機嫌を取って言うことを聞いてくれるようなご都合主義な存在ではありません。

聖書における神様

聖書の神は、一切の存在をお創りになられた創造主であり、絶対の存在、無限なる存在、唯一無二の御方です。雑多な自然の精霊や人霊とはまったく異なる次元の「至高の存在」です。

この創造主なる神様こそが、あらゆる善悪の根源であり、宇宙の被造物を摂理(真理・法則)によって統治されています。そのような神様は、全智全能であり、愛と義(正しさ)であるお方です。

だからと言って哲学者が言うような汎神論はんしんろん」でもありません。宇宙そのものが神であるとか、宇宙を支配する法則(真理)それ自体が神であるとか、哲学者たちやインドの大乗仏教では言いますが、聖書の神はそのような「人格を持たない抽象的な存在」ではありません

聖書の神は「人格を持たれている方」であり、私たち人間をよく知り、愛しておられ、私たちと人格的に交わりをもつことができる御方です

この点においては、哲学者がいう「絶対者」や、大乗仏教がいう「ダルマ」(宇宙の法則)とは似ているようで全く違うのです。

「三位(さんみ)一体(いったい)」である神様

聖書は「唯一の神様」を説いていますが、その神は「3つの位格」(人格)を持っています。

「父なる神」「子なる神」「聖霊」という3つの御方です。

それぞれ別々の人格を持たれていますが、同じ1つの神の本質を共有しておられます。

いわば、3人の人物がいながら、それによって同じ1人の人間だと言うような事態です。

このことをキリスト教会では三位(さんみ)一体(いったい)と言っています。これは人間の「理性・論理」を超えている事柄です。理性的に考えて分る内容ではない=信仰によって受け入れられる神秘とされています。

しかし、なぜ、わざわざ「3つの位格」を持っておられるのでしょうか?

それは、私たち人間を救うためには、この「3つのあり方」が必要だからです。

礼拝でいつも唱える使徒(しと)信条(しんじょう)にもこの「三位一体なる神様」が述べられています。

「三位一体」や「キリスト」について厳密に定義した古代信条(全地公会議の決定事項)が

「ニカイア信条」と「カルケドン信条」です。これらの古代信条に則って「三位一体」なる神、「二性一人格」であるキリストを信じるのが、いわゆる正統的なキリスト教会(東方正教会、カトリック教会、聖公会、プロテスタント諸派)です。

異端の新宗教はこのような健全な教理に立っていないため、どうしても神の理解やキリストの救いの解釈に歪みが生じてきます。

三位一体のそれぞれの位格は、別々の御方であるというだけでなく働きや役割の違いがあります。

(1)父なる神 -創造主-

私たちが肉眼では見ることができない霊であるお方です。

創造主であり、この世界や人間すべてをお創りになられ、今もそれらを維持しておられます。

世界と人間が「堕落した状態」から「本来の姿」に戻ることができるように願われて、子なる神、聖霊様を通して、救いの計画を進めておられます。

(2)子なる神 -贖い主イエス・キリスト-

地上にお生まれになり、私たちと同じように「人間」となって生きてくださった神様です。

「神」であると同時に「人間」でもあり、私たち人間と父なる神との「仲介者(ちゅうかいしゃ)」(とりなし手)とも呼ばれます。

キリストが、人間の負うべき「罪の責任」を代わりに負って、十字架刑においてご自身の命を捨てて、私たち罪人が受けるべき「神の怒りと裁き」を一身に受けられたことで、罪人である私たちが、神様との関係を回復(和解)することができるようになりました。これが聖書の「救いの唯一の土台」です。

十字架の3日後に、キリストは「からだ」と共に(よみがえ)られて、40日の間、弟子たちと過ごされた後、

「栄光のからだ」を持ったまま、天に上げられ、今は「父なる神」と共に天におられます。

「救いの完成」である「最期(さいご)の日」が来た時に、再び地上に来られて、全ての人を「審判(しんぱん)」されます。

(3)聖霊なる神 -救いの伝達者(でんたつしゃ)–

復活されたキリストが天に昇られた後、クリスチャン1人1人に与えられるのが聖霊なる神です。

日本語でいう「精霊」とは全く意味が違うことに注意してください。

聖霊様は、キリストの成し遂げられた「救いの働き」(神の恵み)を私たちの心に伝えてくださるお方です。

聖霊様は霊なるお方であり、肉の目では見ることができませんが、だからこそ、私たちの心の中にまで入りこんで考えや思いを明らかにしたり、罪を照らし出して意識できるようにしたり、内側からきよめる「潔め主」として、私たちの心の中に住んでくださることがおできになります。(内住の聖霊)

<目には見えない聖霊のお働き>

① 自分が「罪人」であることを分からせる

② 聖書と神様について理解できるように助けてくださる

③ キリストが「救い主」であることを分からせ、信じることができるように導かれる

④ 「天にいるキリスト」と「地上の信仰者」を結びつけ、「救いの恵み」を伝えて、心に注いでくださる

⑤ 私たちの心の中に住んでくださり、救いの完成へ向けての「霊的な成長」を導いてくださる

このように、聖霊は、私たち1人1人の「救いの達成」と大きく関わっているお方であり、

「恵みの伝達者」「救いの遂行者」としての役割を持っている方です。

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