【第3課】「救い」に「あずかる」ためには何が必要なのですか?

教会のための神学入門

私たちが「救いにあずかる」ためにはどうすればよいのでしょうか?そのためには「悔い改め」と「信仰」が求められます。

まことの「悔い改め」とは何か?

聖書の求める「悔い改め」と 日本語の「反省や懺悔」は どう違うのでしょうか?
「反省」「懺悔」とは、もう二度とこんな悪いことはすまい、と過去を悔やんで決心することです。つまり、二度とそういうことはしないように自力で頑張ろうと思っている含みが残されているのです。

「悔い改め」はそうではなくて、自分には「罪を犯すことしかできない」という事実を認めて、自分を自力で更生・改善させることができない現実を認めることです。 

罪の性質に対して「自分がいかに無力であるか」を徹底的に認めることが、まことの「悔い改め」です。
自分の罪が自分の手には負えないことを宣言する「罪性の根深さに対する降伏宣言」なのです。

また、悔い改めとは「転回」です。

神からどんどん離れて、偶像ばかりを求めてしまう自分を嘆いて、
「神様のもとに帰りたい。神様との交わりを回復したい」と切に祈り願うことです。

それまでの人生が、神を求めず、神以外のもの(偶像)ばかりを追いかけて自己満足を得ようとしてきた歩みであることを悔いて神のもとに「立ち帰ろう」として「魂の向きを変える」ことです。
(参照:「放蕩息子の帰還」 ルカ福音書15章11節)

「信仰」は「悔い改め」と表裏一体の関係にあります。


なんとか努力修養すれば(十字架の贖いが無くても)自力で正しい人生を送ることができる、などと思っているうちは、まだ真の「悔い改め」には到達していません。
そういう段階にある人は「十字架の贖い」こそが「わたしの救い」であると思って、キリストを救い主として信じる=「信仰」(絶対的信頼)に飛び込むことはできません。
ゆえに、まことの「悔い改め」がまことの「信仰」と表裏一体に伴う、と言われるのです。

「キリスト」こそが私の「救い主」であり、十字架の贖いが「救いの土台」であると信頼すること=まことの「信仰」

「まことの信仰」「救いにあずかることができる信仰」「生きて働く信仰」とは どのような性質のものでしょうか?
逆に言うと、「救いにあずかることができない形骸化した信仰」とはどのような信仰でしょうか?
「神様」が備えてくださった「キリストの十字架の贖い」だけが、自分の罪深さに対する「救いの手段」であることを心から信じて、救い主キリストを信頼し、キリストに身を委ねること、それが「信仰の本質」です。

「信仰」は、神がおられること、キリストが救い主であったこと、聖書や信条の内容が正しいことに対する単なる知的な同意ではありません。そのような同意は悪霊でさえも持っています。(マルコ5章)

まことの信仰、救いにあずかることができる有効な信仰とは、キリストの十字架の贖いが「他ならぬこの私のための犠牲」であったことを信じて、救い主キリストに人格的に頼る(=信頼する)ことです。

キリストとの間に、個人的な結び付き、人格的な交わりと信頼が成り立たなければ、
そこに生きた霊的な交わりが発生しません。
キリストに対する人格的信頼がなく、霊的なつながりと生きた交わりを欠いている信仰は
「死んでいて命が無い信仰」
なのです。

「生きた有効な信仰」は、救い主キリストと私たちを見えない霊的なパイプで結び付けます。
その空の管を通して、十字架でなされた贖いの恵みが、私たちに注がれるのです。信仰とは、罪人である私たちとキリストを結び付ける霊的なパイプです。
この空の管がなければ、キリストが獲得された救いの成果は、私たちに注がれることがありません。

「洗礼」とは 弱い信仰を 強め励ますための「恵みの手段」


「悔い改め」と「信仰」を少なからず持つに至った人が、キリストに結び付く信仰をさらに確かにするために受ける聖礼典が「洗礼」です。

洗礼や聖餐という「礼典」(儀式)それ自体に何か魔術的な力があって、それを受けた人に
自動的、機械的に信仰と救いを与えるのではありません

すでに悔い改めを経て、キリストに対する生きた信仰を少なからず持っている人が、そのまだ弱い信仰を励まし強めるために「礼典の補助的役割」があるのです。

(これは日本のメソジスト派教会で非常に誤解されている項目です。プロテスタント神学では、事効論=カトリックと同じ礼典理解に立つルター派と、事効論に立たない改革派に見解が二分されます。ウェスレー自身の洗礼理解は明らかに後者に近い立場です。)

受洗時の信仰は、まだまだ弱い不確かなものかもしれませんが、そのような「からし種のような小さな信仰」であったとしても、キリストは受け入れて下さいます。

「洗礼」に先立って、罪の認識、悔い改め、キリストへの信仰が 少なからず生じているか?
「キリストこそ私の救い主です」、「十字架によらなければ私は救われません」といった信仰の告白が、あなたの心の中に生じているかどうか?をもう一度確認しましょう。

なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。(ローマ人への手紙10:10)

●質問1● あなたは自分が「罪人」であると認めますか?
真正な「悔い改め」の思いがありますか?

●質問2● あなたは キリストこそが「私の救い主」であり
      十字架で「罪のあがない」をなされたことを心から信じますか?

⇒ あなたの「救いの証し」を書いてみましょう。(=救いに導かれた心の過程)

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