【第2課】「堕罪後の人間」と「キリストに導かれる前」の状態

教会のための神学入門

「第1課」創造と堕罪の章で見たように、アダム以後の全ての人類は、アダムが陥ったのと同じ

「魂の腐敗」「霊的な堕落」(=原罪の影響)のもとにあります。宗教改革者のルターやカルヴァンは、堕罪後の人間の様子を「全的に堕落している」と表現しています。

それは、人間の魂の全領域が、罪の影響力によって汚染されて歪められていることを意味します。

理性、思考、感情、自由意志といった全領域において原罪が侵食して魂を腐敗させているのです。

この強力な感染症(原罪の性質)によって、まことの神を避け、偶像崇拝にばかり走るようになります。

それゆえに、生まれたままの状態での人間は、自分の努力や自由意志によっては、まことの神を求めて、神との交わりに立ち帰ることができません。

(全的堕落に置かれている人間は、自己の救いにおいて全くの無能力であり、自分の霊的惨状すら正しく認識できないからです)

「先行する恵み」~「良心」を通して呼び掛け、導く聖霊~  

しかし、神様は人類をそうした「完全なる全的堕落」のままに放置されているのではありません

(この点において、宗教改革者の神学とウェスレーの神学は「人間論」において決定的な違いがあります。あまり日本のメソジスト教会では意識されていない点です。)

救い主キリストが世に来て「全ての人を照らした」(ヨハネ1章)ことによって、キリストを通して救いに導く「聖霊」の見えない働きが 全人類に少なからず及んでいるとウェスレーは語ります。

すべての人類に投げかけられた「キリストの光」と「聖霊の働き」のことを「救いに先立つ恵み」(先行的恩恵)と言います。

この先行する恩恵によって、全ての人に最低限の理性や自由意志が回復されています。

この回復された魂の機能を「良心」と言います。

もちろん、最低限のとあるように、この段階における「良心」の働きは不明瞭で弱いものです。

しかし、この「回復された良心」が少なからず与えられていることによって、多くの人間がある程度の道徳的判断や善い行いをすることができるようにされています。

つまり、未信者であっても道徳的・倫理的に善い行いをする可能性が無いわけではありません。この「良心」の働きによって、この世の完全な腐敗から守られているのだとも言えます。

「良心の働き」は、人間が生まれつき備えている「自然の能力」なのではなくて、

神様が憐れみによって、聖霊を通して回復してくださった「恵み」による「賜物」です。

(「良心」の働きは、私たち自身の自然的素質や生まれつきの能力ではありません。また、この段階における倫理的な善行によって、魂の救い=罪の赦しと罪からの潔め に到達できるわけでもありません。)

さて、神様がこのような「先行的恩恵」の贈り物を与えているのはなぜでしょうか?

それは、社会が完全に腐敗・堕落して、人類が滅び去ることを防ぐために、最低限の理性や良心が働くようにして下さっているという理由が1つ。

また、きわめて限定的にであるが回復された自由意志によって「救いへの導き」に対して人間側が「応答する」(備えられた回心へと歩む)ことができるように備えて下さっているのです。

「救い」へと至る3つの段階 ~ 偶像、律法、福音~  

「救いに先行する恵みの働き」(先行的恩恵)によって「救い」(回心)へ導かれている私たちには、

「救い」にあずかるまでに「3つの段階」がある、とウェスレーは考えました。

「生まれたままの状態」、「律法の下にある状態」、「福音の下にある状態」の3つです。

「生まれたままの状態」(=偶像崇拝者の段階)では、

良心を与えられていながらも、その良心を活用しないために、魂は霊的に眠り込んでいる状態にあります。

神を求めず、罪の自覚はなく、かえって自分が善人であるとか、自由に生きていると思っています。あれこれの「偶像」ばかりを求めて自分の感覚的な欲望を満たすことばかりを求めて生きる段階です。

しかし、そのような状態においても、不十分な「良心」を通して聖霊は働きかけています。光を当てられた魂は、霊的な無知のまどろみから叩き起こされて、霊的に歪んだ自己の姿に気付くことがあります。

「良心の呼び声」に耳を傾けることによって、神の存在を探し求めるようになり、神の御心に従って正しく生きようと考える段階にやがて到達します。これが「律法の下にある状態」です。

「律法」は私たちに、何が神の御心であり、何が正しいあり方であるかを教えますが、いくら正しくあろうとして励んでも、私たちの内に罪性への抜きがたい傾きがあることにやがて気が付きます

「律法」が求める「正しさと聖さの基準」はあまりにも高すぎて、原罪の中に置かれている人間には達成不可能でしかなく絶望に至ります

このようにして「律法」は最終的に「キリストへと導く養育係」となります。

最後に、キリストの十字架の贖いに「自己の救いの土台」を見い出す「福音の段階」に至ります。

この段階に入るために求められるものが、まことの「悔い改め」と「信仰」です。

(日本のメソジスト派教会では、ウェスレーの「先行的恩恵」の教理を正しく理解しているでしょうか?また教会において正しく語られているでしょうか?)

このように、信仰が与えらえるよりもはるか前から、良心や律法を通して少しずつ私たちを導いて、

罪に気付かせ、キリストの福音へと導いて下さる目に見えない「聖霊」の働きがあるのです。

こうした「先行する恵み」に1つ1つ応答していく中で次第とキリストへと導かれていくのです。

聖霊は、表面的な1つ1つの罪を知させ、さらに進んで、根源にある「原罪」の自覚を促します。

いかに神を知らず、神から離れて、偶像だけを求めてさまよって生きているかを自覚させるのです。

聖霊は、私たちの心の深くに光を当てて、おのれの罪を悟らしめるのです。(認罪の働き)

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