【第1課】「人間」とはどんな存在ですか? ~人間論・罪論

教会のための神学入門

「人間」(あなた)は「創られた存在」(被造物(ひぞうぶつ))です

◆「神様」によって「創造された存在」です

聖書は、人間も動物も、世界にある全ての存在は、神様(創造主)によって創られたものであると語っています。

つまり、偶然に意味もなく、いつの間にか生じてきたものではなくて、作り手である神様が1つ1つのものに「意味」や「目的」を込めて創られたということです。

それは、人間が作り出す「家」や「車」や「美術品」に1つ1つ「設計図」「目的」「役割」が与えられているのと似ています。

1:3 神は「光あれ」と言われた。すると光があった。

1:4 神はその光を見て、良しとされた。(創世記)

◆「創られたものとしての人間」には「あるべき姿」「本来の役割」があります

神様が「人間」に与えていた「目的」「役割」とは何なのでしょうか?

神様が創られた全てのものの中で、人間は「特別な存在」でした

それは「神のかたち」に創られているからです。

人間は「からだ(肉体)」と「心(精神)」から成ります。

「心(精神)」の中核には「霊」があります。

この「霊」こそが、神によって吹き入れられた「命の息」です。

2:7主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。

「神のかたち」に創られている人間は、「神様」と親しく交わることができました。

神様が語られることを聞いて、神様の愛と祝福を受け止めることができる「特殊な存在」でした。

1:26神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。 1:27神は自分のかたちに人を創造された。(創世記)

神様の計画(みこころ)に従って、神様の代理人(だいりにん)として、地上にある物を管理することによって、

神様のお仕事の一部をにない、神様の栄光がもっと地に満ちるようにお手伝いすることが期待されていたのです。これが本来の「人間のあり方・役割」です。

また、神様の近くで、神様と親しく交わり、神様の働きの一部分をになうことを通して、神様が持っている善い性質(愛、正義、知)を身につけ、神に似た者(神の似姿)になるようにと期待されていました。

「人間」は「堕落(だらく)してしまった存在」です

◆「あるべき姿」から「逸脱(いつだつ)」してしまっている

人類の始祖であるアダムとエバは、神様に従い続けることに失敗して、神の言葉よりもサタン(悪魔)の言葉(誘惑)を信じて、その言いなり(奴隷)となってしまいました。

この「堕落」事件によって、人間の魂の奥深くまで「罪の性質」が入り込みました。(参照:創世記3章)

私たちの「霊」「神のかたち」は、この罪の性質によって(おお)われ(ゆが)められてしまいました

霊的に腐敗が進み、もはや霊的には死んでいるような状態になっています。

そのため以前のように「神様と親しく交わること」ができなくなり、神様の御心が分からなくなったのです。同時に、神様に似た性質(神の似姿= 愛、正義、知)もすっかり失われてしまいました。

3:8彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。 3:9主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか」。 3:10彼は答えた、「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」(創世記)

罪の力によって、人間はサタンの支配下に置かれてしまいました。

人間が「神様のみこころを担う代理人」でなくなってしまったために、世界全体も「本来あるべき姿」から堕落してしまいました。

人間の堕落の結果として、地上には「悪」が蔓延し、争いと不和が絶えなくなり、自然界の秩序も崩れて、災害が多発するようになってしまったのです。

6:5主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。 6:6主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、 6:7「わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。わたしは、これらを造ったことを悔いる」と言われた。(創世記)

サタン(悪魔)とは、神に逆らう悪しき霊的存在(堕落した元天使)です。

彼らの目的は、神様の御心が実現すること、神様の計画が成就することを妨げ、神様が創られた善いものを滅び(無)に帰らせることです。

私たちの心には「性質としての罪性」があります

こうして、全ての人間が例外なく「罪人(つみびと)」になってしまっている、と聖書はいいます。

たとえ、地上の人間の目から見て「善い人」に見えたとしても、

神様の目から見れば「本来あるべき姿」が失われている「歪んだ存在」であることには変わりません。私たち人間が見て判断する「基準」と、神様の善と正義と聖の「基準」は途方もなく違います。

「罪」には「表面的な罪」と「根源的な罪」があります。

「根源的な罪」のことを「原罪(げんざい)といいます。

これは「神を無視して生きる性質」「神から離れてしまう傾向性」

「神を神と思わず、自己中心に生きてしまう性質」のことです。

この「根源的な罪」は、私たちが普段「罪」という言葉でイメージするような

道徳的・法律的な次元の悪ではありません。(そちらは「表面的な罪」です)

「原罪」とは「神の創られた本来の姿」からの逸脱・歪みであり、また霊的な堕落性と腐敗性ですから

聖霊によって(また御言葉によって)照らされてはじめて「罪の深い意味」が分かるのです。

(「霊」の次元のことは「霊」によらなければ分かりません。)

普通の日常生活を送っているうちは、この深いレベルでの「霊的腐敗」「根源の罪」に気付くことはありません。だからこそ、誰もが「自分が罪人ではない」と思い、また善人だと自認しているのです。

人類の祖であるアダムが罪に堕ちたことによって、その後に生じた子孫全てにも堕罪の影響が広がっていきました。河の上流が汚染されるとそれ以降の川全体が汚染されるのと似ています。

そして、人間は「神以外のもの」を「代理物」として崇拝し求め頼るようになっていきます。

自己中心な願望を満たしてくれる「作り物」「ニセモノ」の神を、自分たちで作り出して、それを彫像に刻んで、それにひれ伏し、それを崇めるようになります。(偶像(ぐうぞう)崇拝(すうはい)

「創造主である唯一の神様」以外のあらゆる「代理物」のことを「偶像」と言っています。

1:21なぜなら、彼らは神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである。 (ローマ人への手紙)

「根源にある霊的な罪性」(原罪)が土台となって、そこから「エゴイズム」「むさぼり」「強欲」「妬み」「憎しみ」「姦淫」「盗み」「殺人」といった「法律的・道徳的な次元での罪」「1つ1つの悪い想いや行い」が生じてきます。

1:29すなわち、彼らは、あらゆる不義と悪と貪欲と悪意とにあふれ、ねたみと殺意と争いと詐欺と悪念とに満ち、また、ざん言する者、 1:30そしる者、神を憎む者、不遜な者、高慢な者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者となり、 1:31無知、不誠実、無情、無慈悲な者となっている。(ローマ人への手紙)

私たちはこうした「表面的な罪」(法律や倫理上の悪)には気づきやすいものですが、それらを生み出す土台となっている「霊的な腐敗性」(原罪という魂の歪み)にはなかなか気が付きません

しかし、最も悔い改めるべきなのは「原罪」のほうです

「偶像」への傾きこそが、人間を神から遠ざけ、悪を起こさせる第一の要因なのです。

「決して幸福にはなれない」~「堕罪した人間」のその後

「原罪」によって、人間は「神以外のもの」が最重要なものと思うようになりました。

お金、物、異性、地位や権力や名誉、快楽、他人からの愛や評価、そういうものさえ手に入れれば、自分が幸福になる。満たされると思って、そうした「偶像」を得るために生きています。

 1:25彼らは神の真理を変えて虚偽とし、創造者の代りに被造物を拝み、これに仕えた。(ローマ書)

しかし、全てのものを創造された「主なる神」だけが「永遠」「完全」な存在であって、それ以外の創られた被造物は「過ぎ去る存在」「一時的なもの」「不完全なもの」でしかありません。

だからこそ、私たちは「神以外」のどんな「偶像」を求め、手に入れたとしても、

それによって人間は飽き足り、満ち足りることができないものです。

「神のかたち」に創られた人間にとって、魂の本当に深いところを満たすことができるものは「神様」だけです。

しかし、神様を知らない人間、神を無視して生きている人間は、そのことが分からないため、蜃気楼を追いかけるようにして、あれこれの偶像ばかりを追い求めて生きてしまうのです。

「罪」の結果は「滅び」です

「神」を離れて、「虚しい偶像」ばかりを頼り求めて生きた結果、

私たちを最後に待ち受けているものは「霊的な死と滅び」です。

6:23罪の支払う報酬は「死」である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。(ローマ人への手紙)

「神様との霊的な交わり」を失ってしまった人間は、もはや「神様の永遠のいのち」から切り離されてしまっています。

ちょうど、木の幹から切り離された枝葉が、やがて枯れ果てていくのと同じです。

「死」には「肉体の死」と「霊的な死」(第2の死=永遠の滅び)があります。

「肉体の死」とは、「肉体」と「魂(精神)」が分離することです。

「肉体の死」の後、キリストが再臨される「最期の審判」の時に「永遠の滅び」が訪れます。

これ以降は、神様との関係、神様との交わりを回復することが永遠にできなくなります。

神様は「正しい方」「聖なる方」ですから、悪しき者、罪ある者をそのままにしておかれません。悪に対しては「裁き」「報い」が与えられなければ「正義」が貫徹されません。

「神」を無視して「偶像」ばかりを追い求め、悪を犯して生きる人間に対して、神は「怒り」「裁き」をもってのぞまれるのです。

しかし、正義である神様は、同時に慈しみ深き御方ですから、罪人にすぎない(裁かれて当然の)私たちであっても、どうにかして滅びから救われることができるようにと、限りない愛をもって助け出そうと「救いの計画」を定められました。その計画の中心におられるのが御子イエス・キリストです。

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